メガネの備忘録

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自然へのまなざし、都市へのまなざし ―「プーシキン美術館展」感想

pushkin2018.jp

 実際に行ったタイミングよりやや遅くなりましたが、東京都美術館で開催された「プーシキン美術館展」の感想を書いておこうと思います。

 

1.総論、展示のかたちについて

 「プーシキン美術館展――旅するフランス風景画」は、そのタイトルの通り、モスクワのプーシキン美術館のコレクションの中でも重要な位置を占める「風景画」を取り寄せた展覧会でした。

 この展覧会でまず面白いのは、その構成です。

 「風景画の展開」と称された第1部では、風景画のまさに大御所と言えるクロード・ロランの絵画やランクレの大自然を背景にした雅宴画、そしてありのままの自然を描いたバルビゾン派やレアリスムを拓いたクールベに至る風景画の系譜が時系列で描かれます。元は低い地位に置かれた風景画が如何にして発展してきたかを、「時間的」に把握できる作品群と言えそうです。

 

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  クールベ「山の小屋」

 

 ところが、続く第2部「印象派以後の風景画」では、4つの章に分けて、「空間的」にそのコレクションの整理が図られます。「パリ」「パリ近郊」「南仏」「異国/想像の世界」―だんだんと視点は、中心から周縁と移り変わっていきます。だんだんとマルケ、ヴラマンク、ドランやフリエスといったフォーヴの画家の作品が現れてくるのも、内面の表現へと向かう絵画のトレンドをなぞるようで示唆的です。

 

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ドラン「港に浮かぶヨット」

 

 私たちはこの展覧会を通して、まさに風景画をめぐる時間・空間を超えた「旅」に出ることができると言えるでしょう。

 

2.面白かったこと、古典主義とポスト印象主義について

 この展覧会は、ローマという異国への「旅」を通して大成したロランにはじまり、タヒチという全く別の異国へと誘われたゴーギャンや植物園から自由にジャングルを夢想したルソーらの絵画で幕が下りる、という構成になっています。

 古典主義、アカデミズムの頂点ともいえるロランと、その真逆を行ったゴーギャンやルソーたち。しかし、両者ともに、「現実の光景を理想に沿うように再構成している」点が、ちょっと似ていたりします。勿論表現は全く似ていませんが……。

 

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 ロラン「エウロパの略奪」    

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ルソー「馬を襲うジャガー

 

 風景画は、「普遍」的な美を目指したロランの理想化、そしてモネら印象派が行った徹底した写実の時代を経て、ゴーギャンらのような「個」の内面に根ざす新たな理想化へと向かったと言えるのかもしれません。だとすれば一連の風景への向き合い方は、まさに「モダン」の自己解体の過程を暗示しているとも言えそうです。

 

3.考えたこと、自然と都市について

 私は、実は都市を描いた近代以降の絵画がとても好きです。あえて言ってしまうと、自然を描いた絵画よりも好きです。これは完全に「自分探し」のようなものですが、今回の展覧会はその理由を見つめ直す良い機会となりました(勿論それは、目の前に素晴らしい自然と都市の絵画が溢れていたからです)。

 結論から言うと、私が都市の絵画を好きなのは、都市という空間の「意味」を解体させてくれるからだと考えています。

 

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 コロー「夕暮れ」

 

 逆に、「私たちが自然の絵画を好むのは何故か?」という点から考えてみましょう。といっても、その答えは当然一様ではありません。バークの「崇高」概念からそれを説明する理論家もいれば、なんとなく美しい緑に心惹かれる、という人もいるでしょう。しかし、何となく全ての基底に、自然の「分からなさ」というものが横たわっているような気がします。ゲルハルト・リヒターは、

どんなかたちであれ自然は、つねに私たちと対立するが、それは自然が、意味も恵みも、また同情も知らないからである。自然は何も知らず、完全に精神性を欠いている。*1

と述べたといいます。

 自然は私たちにとって徹底的に他者であるがゆえに、ときに脅威として、またときに壮大で夢のような存在として想起されます。そして自然の絵画は、その「分からなさ」のうち、画家の知覚で掴み得た一部を画面の上に落とし込んだもの。だから私たちは、画家の優れた目(あるいは五感)を賛美し、自然の絵画を愛するのではないでしょうか。

 

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ラファエリ「サン=ミシェル大通り」

 

 翻って、都市とは私たちにとってどんな存在か。これも一人ひとりで異なる回答がありそうですが、都市が自然に比して「人為」に満ちた、身近な空間であることは多くの方に同意していただけるのではないでしょうか。たとえば、美容院があり、レストランがあり、街灯が待ちゆく人びとを照らし、寸分の狂いもなく設計された窓たちは同じ大きさの明かりを漏らす……。都市の光景には、「意味」が溢れています。何故なら、都市は人間によって、人間のために作られた場所だからです。都市は自然とは対照的に、人間にとって「分かりすぎる」、情報に溢れた空間なのです。

 しかし、近代以降の都市の絵画は、その「意味」を適度に剥ぎ取ります。たとえば上に貼ったラファエリの絵画において、建築物の表現は驚くほど曖昧で、ふわっとしたものになっています。これは、合理的につくられた建築物を、「今、この一瞬の見え方」という印象派的な一回性のレンズを通して捉えなおした結果だと言えそうです。

 

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マルケ「パリのサン=ミシェル橋」

 

 このマルケの作品―個人的にこの展覧会で最も心惹かれた一枚です―は、その特徴が顕著です。まちや人の風景はデフォルメされ、一つの造形として描かれています。

 たとえば、右上に見える白や黄色の看板のようなもの。ここには本来、何かしらの情報が書かれていたはずです。でも、マルケはその情報を捨象しました。バスの行き先、川の手前の建物が「何のためのものであるか」、歩いている人の社会階級……。そのような「意味」の一切は剥ぎ取られ、ここには様々な色で彩られた四角や三角があるのみです。

 この絵画は「叙情的」「詩情豊か」といった言葉で表現されますが、言葉や意味を剥ぎ取った結果、「詩情」が生まれるというのは、なんとも不思議な話です。

 

 ようやく、何となくまとまってきました。自然の絵画は「分からない」を掴もうとするのに対し、都市の絵画は「分かる」を解体する。それが、自然と都市の絵画の一つの考え方の違いのようです。

 そんななか、自分が特に後者に惹かれるのは、やはり「意味」の解体というプロセスに、画家の個性が強く出ると思うからなのでしょう。画家の多くは日頃、パリをはじめとする都市空間で生きています。大自然に憧れて、時にデッサンに出かけても、基本的に彼らは人と人とのコミュニケーションの空間からは逃れられません。そんな中、窓から眺めた「知り尽くした空間」をどうやって一枚の絵にするのか。そこには、画家の日頃の息遣い―「何を大切にして、どう世界を見ているのか」という問いへの飾らない答えが現れてくるような気がしてなりません。

*1:リヒター著、清水穣訳、福元崇志再訳『絵画論/写真論』より